インド(ムンバイほか)
ムンバイ(旧ボンベイ)湾から望むインド門(右)とタタグループの象徴・タージ・マハール・ホテル“パレス棟”(左)&“タワー棟”(中央)
三井物産との熾烈な競争を勝ち抜きタタ銑鉄の一手販売権を獲得した鈴木商店
インド第二の都市・ムンバイ(旧ボンベイ)は、インド西海岸に面するマハーラーシュトラ州の州都で、人口1,200万人を超え、アジア有数の金融センターとして商業、文化の中心都市に発展している。
イギリスのインド経営(東インド会社)の西の拠点として発展したボンベイは、19世紀後半、綿工業のインド最大の中心地となった。1868年、綿貿易会社を設立し、インド初の綿紡績工場を建設したのがイランから移住した(パールシー=ペルシャ人)タタ財閥の創設者・J.N.タタ。
J.N.タタの子孫は、その後電力、車両製造、製鉄、ITなど多角化を図り、インド最大の財閥に成長、中核企業30社、系列会社100社を超え、従業員数は70万人を超える。製鉄分野のタタ・スチールは、今日粗鋼生産量で世界第4位を占める。
鈴木商店とタタ・スチールの繋がりは、大正7(1918)年の第一次大戦中に遡る。鈴木商店は、神戸製鋼所および川崎造船所向けにタタ銑鉄の長期輸入契約を締結した。
ところがその後、イギリス政府が鉄不足によりインドからイギリス向け以外の輸出を禁じたため、日本への供給契約が頓挫してしまった。その後、大戦が終結すると銑鉄価格は暴落。禁輸令が解けると、タタは暴落前の契約価格での引き取りを求めたが、鈴木商店は、必要な時に輸出できなかったとして、市況価格での引き取りを主張。交渉は難航し、訴訟問題に発展しかけたが、双方の歩み寄りにより円満に解決。この時の鈴木商店の誠意が認められ、タタの信頼を得て、銑鉄の一手販売権を獲得した。
タタの銑鉄については、三井物産も鈴木商店とほぼ同時期に取り扱い実績があり、大戦前には、1919年までの一手販売契約を結んでいたことが残されている。
鈴木商店は、タタとのより一層の関係強化の必要からボンベイに事務所を開設した。 鈴木商店破綻後、タタとの商権は、日商に受け継がれ、日商岩井を経て現在の双日に脈々と引き継がれている。タタグループとの変わらぬ信頼関係は、1983年以来タタスチールの主力工場のあるジャムシェドプール(ジャールカンド州)においてタタグループ・双日の親睦ゴルフ大会が開催されていることにに見られる。