④大里製粉所(後・日本製粉、現・ニップン)
鈴木商店の製粉業進出
日本の製粉技術は、幕末になると木製の水車と石臼や竹製のヤッコと呼ばれるものを用いた水車製粉が行われたが、技術的には素朴で不完全なものであった。
一方、欧米においては、18世紀の蒸気機関の発明から起こった産業革命により、製粉業は近代化された。蒸気機関を使った最初の製粉工場は、1784年にロンドンのウェストミンスターに設立された。それまでの製粉技術の中核をなす挽砕工程から石臼を駆逐した鋼鉄製のロールミルの登場により決定的な進歩を遂げる。
米国においても、近代的機械製粉工場がミネアポリスに次々と建設された。米国産の小麦粉は「米利堅(メリケン)粉」として、幕末の日本にも輸入された。
日本の製粉業においては、明治32(1899)年から実施された関税定率法が、それまで関税の保護がなかった小麦粉に、輸入メリケン粉と競争するうえで有利となり、機械製粉企業の成立を促進した。
明治43(1910)年、鈴木商店による大里への製粉会社進出計画が発表された。鈴木商店所有の大里税関仮置場隣接地8,000坪に工場建設を決定した。香港から中古機械を輸入して、翌年大里製粉所が操業を開始した。
その後、ノーダイク社製の最新設備を整え、国際経験豊かな米田龍平技師長のもと、「赤ダイヤ」「緑ダイヤ」の商標で販売、業績向上に大いに貢献した。
大正4(1915)年、大里製粉工場は電気系の火災に見舞われた。復旧工事を急ぎ、翌年の大正5(1916)年に再開した。再建後は、当時としては珍しいマカロニ(商標は「ダイヤモンドマカロニー」)工場も建設した。
大正9(1920)年、大里製粉所は日本製粉と対等合併することになった。日本製粉が合併を決意したのは、大里製粉所は「赤ダイヤ」「緑ダイヤ」の商標で創業以来相当の成績をあげてきたこと、ノーダイク社製の最新鋭機をはじめ設備が完備していること、鉄道や港湾の便がよいことなどであった。
さらにこの大里製粉所には、先に述べたように米田龍平というスーパー技師長がいた。同時に東洋製粉とも合併を行い、日本製粉は日本の製粉界を日清製粉と二分する規模となった。その後の日本製粉は、昭和2(1927)年の金融恐慌、鈴木商店の破綻の影響を受けたが、三井物産の強力な援助により業績の回復に向かった。
平成の時代になると、日本製粉は九州地区の製粉工場の集約化を図り、平成9(1997)年門司工場は廃止され、大里における製粉事業の88年の歴史を終えた。