⑩日本酒類醸造・宇和島工場(宇和島市)
わが国初の新式(甲類)焼酎「日の本焼酎」を製造
「日本酒類醸造」の前身「日本酒精(株)」は、明治40(1907)年、北宇和郡八幡村(現・宇和島市)に地元有力者によって設立された。技術者(後に工場長)大宮庫吉により、明治43(1910)年、無臭焼酎(甲類焼酎)に在来の焼酎"粕取焼酎"を混和してわが国初の新式焼酎"日の本焼酎"を売り出し、同時に社名を「日の本焼酎」に改称した。(*日本酒精の創業時期については、明治39(1906)年とする説、明治41(1908)年とする説もあるが、大正12年の同社の広告に明治40年3月創立とある。)
天才技師・大宮庫吉の開発した"日の本焼酎"は、味と香りで一世を風靡し、品質・価格とも他社の粕取焼酎を凌駕して圧倒的な評判を得た。その後、社名を「日本酒類醸造」に再度改称した。(日本酒類醸造の後身会社「日本酒類(株)」に在籍した中島昌幸氏の研究によれば、大正5(1916)年に社名変更とあるも、大正元(1912)年には既に日本酒類醸造名義による"日の本焼酎"の登録商標があることから「日本酒類醸造」は大正元年には存在していた。)
然し、その後の焼酎業界の乱立により経営不振に陥った「日本酒類醸造」は、地元宇和島出身の山下亀三郎に救いを求め、山下の仲介により鈴木商店に買収を持ち込んだ。
大正3(1914)年、九州大里(門司)に「大里酒精製造所」を設立して焼酎事業に進出した鈴木商店としても、"日の本焼酎"の品質を熟知しており工場長・大宮庫吉と共に「日本酒類醸造」を引き受けることになった。鈴木商店の買収の狙いは、新式焼酎と大宮庫吉本人であったと言われる。「日本酒類醸造」を吸収した「大里酒精製造所」は、敢えて社名を 「日本酒類醸造」とし、本社を鈴木商店下関支店内に置いた。(大正6(1917)年)
鈴木商店による買収を快しとしない大宮庫吉は、部下十数名と共に日本酒類醸造を離れ、京都伏見の四方合名会社(後の宝酒造)に移った。大宮の抜けた新生「日本酒類醸造」は、経営陣を入れ替え、鈴木商店下関支店長・西岡貞太郎を社長に据えて再出発した。こうして鈴木商店は、大里と宇和島の両工場を有する本邦最大の焼酎会社となり、"日の本焼酎"と旧大里酒精時代からのブランド"ダイヤ焼酎"の2大ブランドを販売した。(前述の中島昌幸氏の研究"日本酒類(株)の概略より)
大正7(1918)年8月22日、宇和島に飛び火した米騒動により宇和島工場は、焼打ちに遭い全焼した。宇和島工場の焼打ちは、米価の騰貴から代替食としていた甘藷が日本酒類醸造により買い占められ、価格をつり上げているとの不満から起こった。直ちに鈴木傘下の企業の応援により再建に着手し、翌大正8(1919)年10月に工場再建され製造が開始された。