都市開発・鉄道

金子直吉の交通事業に寄せる強い思い

◆山陽電気軌道(現・サンデン交通)
 出資   時期不明(設立:大正13(1924)年)
 所在地  下関・彦島

◆長府土地(山陽電気軌道を経て現・サンデン交通)
 出資   時期不明(設立:大正14(1925)年)
 所在地  下関・長府

山陽電気軌道は、大正13(1924)年下関市内より山陽路の地方鉄道および軌道を敷設営業することを目的に設立された。

かねてより金子直吉は、交通事業に強い関心を持ち、関東大震災の直後には、阪神間に新しい海岸鉄道敷設計画を具体化しようと試みたが叶わず、代わって山陽電気軌道に出資したものである。

鈴木破綻後同社は、大正14(1925)年設立した長府土地を併合し、昭和46(1971)年鉄軌道業を全廃し、公共バス運航を中心とする旅客自動車運送業に転換した。これを機に社名をサンデン交通に改めた。

金子直吉の故郷、高知市内を走る土佐電鉄の車両は、国内外で実際に使われていた多くの車両が使われているが、かつての山陽電気軌道の車両も今なお現役で運行されている。

◆王子電気軌道
 出資   大正6(1917)、大正生命保険が筆頭株主
 所在地  東京・北区王子

王子電気軌道(株)は、明治43(1910)年資本金100万円にて地元有志25人により設立された。大塚~飛鳥山間の軌道事業並びに電気供給(電灯)事業を併営してスタート。

その後資金繰りが悪化し、大正5(1916)年、同社の経営は北浜銀行に移るも同行の破綻により大正6(1917)年、鈴木商店が経営関与することになる。"王子電車”、”王電”と呼ばれ親しまれた。

昭和17(1942)年、電力統制により電灯事業は関東配電(東京電力グループ・東京電燈の前身)に、軌道事業は交通統制により東京市電気局に譲渡され、同社は清算され消滅した。

昭和49(1974)年、旧王子電気軌道の路線は”都電荒川線”として復活、平成29(2017)年”東京さくらトラム”と名称が変わったが、”都電荒川線”の愛称は残された。

◆城東電気軌道
 出資   大正6(1917)年 大正生命保険が筆頭株主
 所在地  東京・江東区

城東電気軌道(株)は、錦糸町、小松川、瑞江等東京の城東地区(江東区、江戸川区)を中心に鉄道事業を運営し、”城東電車”の愛称で親しまれた。

明治44(1911)年、本所区錦糸町~瑞江村大字上今井間の施設認可から始まり、錦糸堀~小松川、水神森~大島、東荒川~今井等々の路線が広げられた。大正生命保険が筆頭株主で、金光庸夫が取締役に名を連ねていた。

王子電気軌道と同様、昭和17(1942)年東京市の経営に移り、市電、都電と愛称が変わったが昭和47(1972)年,全線が廃止された。

◆羽幌炭砿鉄道
 設立   昭和16(1941)年 太陽産業(株)~太陽鉱工(株)
 所在地  北海道

鈴木商店破綻により羽幌炭砿プロジェクトは太陽曹達(後・太陽産業)に引き継がれ、昭和14(1939)年、開発を開始。戦局が深刻化する中、当初は神戸製鋼の熱源を供給することを使命として開発を急ぎ、そして石炭搬送のため同年「羽幌鉄道」を設立し、鉄道の建設に着手。
昭和16(1941)年5月、羽幌鉄道が羽幌炭砿を吸収合併する形で羽幌炭砿鉄道が設立され、同社が一貫して経営することとなった。同年12月、内陸の”築別炭砿駅”から国鉄羽幌線の”築別駅”に至る16.6kmを結ぶ羽幌炭砿鉄道が開通した。

最盛期には年間100万トンを超す出炭量を達成、羽幌町の人口は3万人を超える繁栄を記録したが、国のエネルギー政策の転換等に伴い、昭和45(1970)年、羽幌炭砿は閉山を余儀なくされ、30年の歴史に幕を下ろした。

◆肥筑軌道(株)、肥筑軽便鉄道(株)
 出資   大正5(1916)年
 所在地  佐賀県

「肥筑軌道(株)」は、大正5(1916)年12月佐賀~久留米両市間の最短交通機関を設置する目的で、佐賀市長・野口能毅、古賀製次郎、眞崎悟一等地元有力者が発起人となり鈴木商店の参画を得て設立された。
総延長約22.6kmのうち、第一期工事として11.2kmがほぼ完成を見た時、佐賀、久留米、唐津の有力者50余名の発起による「肥筑軽便鉄道」計画が持ち上がった。
"軽便鉄道"(肥筑軽便鉄道)による"軌道”(肥筑軌道)の買収が決定するも第一次世界大戦後の反動不況から計画は頓挫。肥筑軽便鉄道との合併が白紙に戻った肥筑軌道は、工事が完成していた全線単線による部分開業によりスタートした。
然し、当初計画路線の両端を欠き、院線(内閣鉄道院)路線に接続しない孤立路線となったこと、沿線のほとんどが田園地帯のため収益が上がらず、昭和9(1934)年に運行休止、昭和10(1935)年に廃止に追い込まれ、その短い歴史の幕を閉じた。

<未成線>
未完成の路線、走らなかった鉄道を未成線と云う。計画の段階で、或いは工事が進んでいたにも拘わらず実現しなかった鈴木商店が関わる未成線があった。
https://www.suzukishoten-museum.com/blog/post-417.php

◆但馬軽便鉄道計画(未成線)・出石軽便鉄道
https://www.suzukishoten-museum.com/footstep/history/cat2/post-166.php
大正5(1916)年、鈴木商店は兵庫県江原(現・豊岡市日高町江原)~三方村(現・同市日高町庄境)間の鉄道敷設免許交付を受けた。これは鉱石運搬用の鉱山鉄道として計画したものだが、開発を進める鉱山が落盤事故から閉山となったこと等の事情から工事施工認可されるも大正8(1919)年、建設を断念。鈴木商店として初の本格的なインフラ計画となるものだった。

◆神戸地下鉄道 ~神戸市内地下鉄道計画~
神戸市内の東西をつなぐ地下鉄道計画。昭和3(1928)年、金子直吉、瀧川儀作等地元有力実業家13名が発起人となり神戸市議会に申請するも神戸市の地下鉄計画と重複することから却下された。事業費8,000万円の一大計画。

◆阪神海岸鉄道 ~神戸・大阪間鉄道計画~
神戸市葺合区(現・中央区)~大阪市此花区間の計画。事業費2,500万円、総延長25.7km。松方幸次郎、鈴木岩治郎、瀧川儀作、喜多又蔵ほか神戸、大阪の有力者が発起人となり大正12(1923)年に申請するも鈴木商店破綻により実現せず。

◆明三軽便鉄道(明石鉄道) ~明石周辺に乱立した鉄道計画の一つ~
明石町(現・明石市)~三木町(現・三木市)約20km。明治44(1911)年申請、大正元(1912)年に免許交付されるも、軽便鉄道法による認可申請が必要となり計画中止。

◆相生臨港鉄道(株) ~播磨造船所関係者による臨港鉄道計画~
那波停車場(現・相生駅)~相生町(現・相生市)1.6km。
昭和2(1927)年に発起人三上英果(播磨造船所)、大本百松(大本組創業者)ほか8名により免許申請するも却下された。

関連リンク

  • 土佐電鉄に復活した山陽電気軌道車両
  • サンデン交通
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  • 長府遊園地
  • 長府野球場

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