製糖
鈴木商店の飛躍は製糖事業から
北九州、台湾において製糖事業を展開
鈴木商店の製糖事業は、九州大里から始まった。当初、金子直吉は、台湾民政長官・後藤新平との関係から台湾の基隆に台湾随一の国策会社で三井系の「台湾製糖」に匹敵する製糖工場を建設しようと計画した。後藤が鈴木との関係を議会で問題視されたため、台湾における製糖事業を断念し、代わって大里の水質が製糖に適することから小倉に近い大里に我が国初の臨海工場を建設することになった。その後、鈴木商店は台湾においても製糖事業を展開していく。
◇大里製糖所(後の大日本明治製糖を経て関門製糖)
設立 明治36(1903)年
所在地 大里(現・北九州市門司区)
大里製糖所は、鈴木商店が樟脳事業に次いで本格的に生産部門に進出し多角化に進む契機となった事業である。鈴木商店と大阪辰巳屋(藤田助七)の共同出資により船出した大里製糖所は、試行錯誤を重ねた末、ようやく良質の砂糖の製造に漕ぎつけ、大里の砂糖は全国に普及し始めた。大里製糖所の躍進に脅威を感じた先発の日本精糖(大阪)と日本精製糖(東京)の2社は合併して「大日本製糖」を設立して対抗しようとするも、大里の勢いは衰えず、大日本製糖は大里との合併を申し入れてきた。
鈴木商店・金子直吉は、合併に応じない代わりに、買収に応じることとし、明治40(1907)年に大里製糖所を大日本製糖に650万円にて売却、見返りに一手販売権を取得した。こうして得た売却資金がその後の鈴木商店の発展の大きな原動力となった。
一方の大日本製糖は、その後も鈴木系製糖会社を始め多くの製糖会社との合併を経て大日本明治製糖(三菱系)と生まれ変わるも令和3(2021)年、三井系の三井製糖の系列に移り今日に至る。なお、旧大里製糖所のレンガ造りの工場には、大日本明治製糖と日本甜菜製糖の合弁会社「関門製糖」が設立され、両社の受託を受けて砂糖製造を行っていたが、現在同社は、DM三井製糖の完全子会社として従来通り両社からの受託製造を継続している。
◇東洋製糖(大日本明治製糖を経てDM三井製糖)
買収 大正3(1914)年
所在地 台湾
◇斗六製糖(東洋製糖、大日本明治製糖を経てDM三井製糖)
設立 大正元(1912)年
所在地 台湾
◇北港製糖(東洋製糖、大日本明治製糖を経てDM三井製糖)
設立 明治43(1910)年
所在地 台湾
◇塩水港製糖(現・塩水港精糖)
出資 明治40(1907)年
所在地 台湾・台南県
◇南洋製糖
買収 大正4(1915)年
所在地 東京(工場はジャワ)
東洋製糖は、明治40(1907)年設立され、台湾銀行元副頭取・下坂藤太郎(後の日商初代社長)が同社社長の時代(大正3(1914)年~大正11(1922)年)に台湾での製糖事業に乗り出した。折しも台湾での製糖事業を計画した鈴木商店は、大正3(1914)年に斗六製糖、大正4(1915)年に北港製糖と東洋製糖との合併を進め、台湾島内に6工場を有する台湾第二位の製糖会社を誕生させた。鈴木系となった東洋製糖の一手販売権を得た鈴木商店は、台湾糖業界で確固たる地位を築いた。東洋製糖は、さらに大東諸島で製糖工場を経営していた玉置商会の事業を引き継ぎ、南大東島で製糖事業、北大東島で燐鉱事業を展開するも、鈴木破綻により大日本製糖と合併する。大日本製糖は、平成8年明治製糖と合併し、大日本明治製糖となるも令和3年、三井製糖の系列化に入り今日に至っている。
塩水港製糖は、明治40(1907)年、台湾現地資本による旧・塩水港製糖会社を継承して株式会社として設立、台湾島内に7工場を稼働した。鈴木商店は、創業時より資本参加し、ピーク時には筆頭株主として関係強化を図った。鈴木破綻により、主力工場(旗尾、恒春)は台湾製糖に移譲された。第二次世界大戦後、塩水港製糖の内地資産を継承して昭和25(1950)年、塩水港倉庫が設立され、まもなく商号変更されて新生・塩水港精糖が誕生した。