レザー・ゴム
鈴木商店の化学部門から誕生した
鈴木商店の化学工業への進出の出発点となった「東レザー」から多くの企業が派生する。皮革の代替品として開発されたレザーは、「擬革」、「イミテーションレザー」と呼ばれ、略して「レザー」もしくは「レザークロス」ともいわれた。久村清太(帝人創業者)の持つ「艶消しレザー」の特許権を実用化する「東京レザー合資」を鈴木商店が買収することから鈴木の多角化のドラマが展開する。
◆東レザー(東工業を経て帝国人造絹糸(現・帝人)、東洋ファイバー(現・北越東洋ファイバー)、
日沙商会)
設立 明治40(1907)年
所在地 大阪府西成郡
明治40(1907)年、東レザーを設立した鈴木商店は、翌明治41(1908)年、東京レザー(合)を吸収し、経営参画していた久村清太を技師長に迎え、久村のレザー特許を実用化するための当時日本最大規模の工場を大阪・西成に建設した。大正4(1915)年、「東工業」と改組し、2つの事業がうまれた。
1つは、人造絹糸への進出で、分工場米沢人造絹糸製造所を経て「帝国人造絹糸」に発展した。もう一つは、ファイバー(硬質繊維板)への進出で、サラワクのゴム農園事業と結びついて「日沙商会」に発展する。
◆日沙商会
買収 大正2(1913)年
所在地 兵庫
◆東洋ファイバー(現・北越東洋ファイバー)
設立 昭和9(1934)年
所在地 東京
日沙商会は、鈴木商店の支援を得て明治43(1910)年依岡省三によりボルネオ島サラワク(現・マレーシア・サラワク州)ゴム栽培事業を目的に設立され、大正2(1913)年鈴木商店の経営に移り、鈴木商店の代表的な海外事業会社として展開された。
日沙商会創業者の依岡省三は、志半ば翌年明治44(1911)年病死したため、その弟依岡省輔(神戸製鋼所元専務)が跡を継ぎ、大正6(1917)年、株式会社に改組して初代社長に就任した。依岡省輔は、金子直吉との同郷の縁で入店した鈴木商店より神戸製鋼所へ移り、取締役として田宮嘉右衛門支配人を補佐して多くの功績を残したが神鋼経営方針を巡っての銀行との確執から辞表提出し、日沙商会の事業を引き継ぐことになったものである。
依岡省輔が亡くなった後、ボルネオ産業と改称し、事業展開を図ったが、終戦により全ての事業・資産を失ったため昭和20(1945)年解散となった。鈴木破綻後、昭和9(1934)年日沙商会は、三井系の帝国堅紙と合弁で東洋ファイバーを設立してファイバーの事業化を実現した。これを機に日沙商会は、ファイバー事業を切り離し、サラワクのゴム栽培事業に専念することになる。
東洋ファイバーは、平成24(2012)年北越紀州製紙の系列に入り、本社を沼津に移し、「特殊紙」(事務用バインダー、手帳の表紙、美粧ケース等々)と「ヴァルカナイズド・ファイバー」(単にファイバーとも称される:電気機器部品、各種パッキン等々)を製造する専業メーカーである。平成26(2014)年、北越東洋ファイバーに商号変更された。
◆日本輪業(現・ニチリン)
設立 大正3(1914)年5月
所在地 兵庫
日本輪業(現・ニチリン)は、明治末期、鈴木商店の化学部門の事業会社の一つ東レザー㈱(現・帝人の前身)ゴム工場を源流とする会社である。その後、東レザーはゴム、人絹(レーヨン)と製造品目が多様化してきたので東工業と改称し、神戸・敏馬(みぬめ・神戸市灘区)のゴム工場を分離し、ボルネオでゴム農園を経営していた鈴木商店の子会社の日沙商会と合併させる。日沙商会は、その後ゴム工場を分離、大正3(1914)年5月に資本金10万円で日本輪業合資会社が設立され、この会社が株式会社ニチリンの歴史の始まりである。