ソーダ、ゴム、非鉄金属への進出~太陽曹達、日本輪業、日本冶金
第一次世界大戦の戦時景気を追い風に多角化を加速
大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発し、戦時景気が到来すると鈴木商店は、多角化路線を一気に加速させる。
かねてソーダ加里の重要性を認識していた金子直吉は、大戦勃発時、ソーダ類の輸入途絶に直面した政府・農商務大臣仲小路廉の要請を受け、ソーダ自給を目指して、世界市場を席巻していたブラナモンド社(現・ICI)と満州にて工場建設を計画するも不調に終わる。鈴木商店は、急遽英国・マガディソーダ社と英領東アフリカ(ケニア)のマガディ湖(Lake Magadi)の天然ソーダの日本における独占販売契約を結び、大正8(1919)年、販売会社「太陽曹達」(後の太陽産業、現・太陽鉱工)を設立し、ガラス、製紙、ビール等の諸工業に安定的な供給を開始した。
これより先、大正3(1914)年、鈴木商店はゴム部門を分離・独立させ「日本輪業合資会社」(現在・ニチリン)を設立し、自転車用タイヤチューブ、各種ゴムホース等の製造販売を始めた。ゴム事業は、鈴木商店の海外事業会社として大正6(1917)年、ボルネオ島サラワクのゴム採取事業「日沙(日本・サラワク)商会」の設立に繋がる。日沙商会は、鈴木商店の支援を得て明治43(1910)年、依岡省三により個人事業として創業されたが、鈴木商店の事業として改組・運営された。
この時期、鈴木商店は非鉄金属事業にも乗り出す。代表的な事業として「日本冶金(現・東邦金属)」と「日本金属・彦島製錬所(現・彦島製錬)」がある。日本冶金は金子の国益志向から生まれた事業で、明治・大正期の国内の電球用フィラメントが全て米GEの特許に抑えられている実情を打破すべく、米インディペンデント社の特許によるフィラメント製造を計画し、大正7(1918)年に設立された。だが、米二社間で特許係争が起こり、インディペンデント社の敗訴が決まる。日本冶金の事業に暗雲が垂れ込めるが、京大中澤博士らの全く異なる製法によりフィラメントの国産化に成功。さらに粉末冶金によるタングステン線、モリブデン線他の一貫製造拠点を北九州・大里と京都に構えて開始した。
鈴木商店は、下関・彦島の直営亜鉛製錬工場を大正5(1916)年に独立させ、日本金属を設立して本格的に亜鉛製錬事業に乗り出した。10数棟からなる工場建屋のほか、工員宿舎、工員食堂を備えた堂々たる工場設備を有し、日本冶金とともに鈴木商店の非鉄金属事業の中核を成した。