人造絹糸の開発、帝人の設立
日本最初の化学繊維工業・大学発ベンチャーのはしり、帝国人造絹糸(現・帝人)設立
日本の人造絹糸の歴史は、金子直吉とともに始まる。これは帝人50年史の始まりの一文である。金子が初めて人絹にふれたのは外国人居留地の商館であった。金子は日本人に共通の「絹ものを身に着けたい」という「御蚕ぐるみ」の夢を人造絹糸で実現しようと考え、人絹の国産化に強い野心を持つようになる。
一方、東京帝大応用化学科卒で米沢高等工業学校(現・山形大学)講師であった秦逸三と東大時代の同窓である久村清太は人絹を研究し、金子に研究の援助を求めた。秦は以前、神戸樟脳専売局に勤務しており、金子に職の相談をした際に人絹の研究をすすめられた経緯がある。また久村は艶消レザーの特許を取得し、鈴木商店とともに「東京レザー合資会社」(後に鈴木商店直系の東レザーに吸収)を設立していたことから、二人とも金子とは面識があった。
大正3(1914)年、鈴木商店は米沢高工に寄付をし、秦らの研究を支援。その後、東レザー(後に東工業に改称)の米沢人造絹糸製造所を実験工場にて工業化に成功させる。そして大正7(1918)年、米沢で帝国人造絹糸(現・帝人)を設立し、初代社長には鈴木商店の鈴木岩蔵が就任した。しかし商業化までの道は険しく、金子は秦・久村の二名をそれぞれ欧米に派遣し、ロンドンの高畑誠一にも支援を求めた。
その後、大正10(1921)年に広島工場、昭和2(1927)年に岩国工場、昭和9(1934)年に三原工場を操業させ生産量は飛躍的に拡大する。そして帝人の生産量は英国の全生産量と匹敵する規模となり、世界の一流企業として名を馳せることになる。
一方で創業の地である米沢工場は設備が旧式となったことから昭和6(1931)年に操業を停止した。しかし人造繊維発祥の地、日本初の大学ベンチャーの地として、山形大学、米沢市民の方々によって保存活動が行われ、金子・秦・久村の功績とともに現在に語り継がれている。