依岡省三

金子直吉の夢を賭けた海外事業会社「日沙商会」を創業した「島稼ぎ」の依岡省三

依岡省三(中央)とサラワク原住民ほか関係者

生年 慶応元年(1865年)
没年 明治44年(1911年)

高知に生まれる。明治21(1888)年、逓信大臣榎本武揚の知遇を受け、明治丸で小笠原諸島、八丈島、火山列島を探査。当時領有権が確立していなかった火山列島を日本の領土に編入するよう政府へ献策、周旋につとめた。その結果、硫黄島は日本領となる。その後、硫黄島で硫黄採掘事業を開始する。和歌山県新宮町では無煙炭の発掘・販売、銀行設立等地方開発を行う。

明治31(1898)年には無人島ミッドウェー島を踏査。明治32(1899)年、奈良原繁沖縄県知事の勧誘により、玉置半右衛門と南大東島を開拓し製糖業を創始する。

明治43(1910)年、神戸製鋼所専務取締役の依岡省輔(省三の実弟)の紹介で鈴木商店の金子直吉と相会し後援を得る。金子から「依岡一家は島稼ぎじゃ」といわれるように、危険を顧みず南の島々で荒稼ぎをしようとする「冒険野郎」といった意味で半ば称賛し、金子と省三はたちまち意気投合する。省三は、インドネシア・ビンタン島では首長と会見し精密な調査を行い、また、ボルネオ島ではサラワク王国政府を訪れ、広大な土地租借と開発の許可を得、ゴム園経営に着手した。かくして省三は、サラワクの事業を展開するため、現地に日沙商会を創業するも一時帰国中の京都でマラリアのため亡くなってしまう。

折しも神戸製鋼所専務の要職にあった弟省輔は、金子直吉の委嘱を受けて兄省三の遺志を継ぎ神戸製鋼所役員のまま日沙商会の社長として経営に乗り出した。大正6(1917)年、同社を株式会社に改組し、本社を神戸に移し、サラワク・クチンに支店を設け、鈴木商店との関係を強めた。金子の委嘱を受けて鈴木の海外事業会社としてボルネオのゴム栽培、石炭採掘を中心に運営されることになった。日沙商会が手掛けた事業のなかのファイバー事業は、後年東洋ファイバーに継承された。

金子と依岡省三との関係は、わずか一年ほどの短い期間であったが、金子は省三の熱い冒険精神に感銘受け、その死に際して頌歌を捧げ、「無名の豪傑」と評し省三に寄せる想いを綴っている。

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