神戸(中心部)

神戸の鈴木から、日本の、そして世界のSUZUKIへ

神戸は、欧米をはじめとする諸外国との修好通商条約による開港5港(函館・横浜・神戸・新潟・長崎)のひとつとして、明治の初頭から西洋文化の流入地として発展した。四国・高知の寒村からその神戸の鈴木商店に丁稚として明治19(1886)年に入店した金子直吉も、外国人居留地(明治32年に日本へ返還された今の旧居留地地区)に出入りして、先進的な時代の空気を浴び、やがて大正期の日本経済界を牽引する指折りの企業家として名を知られるようになった。神戸市中央区の中心市街である旧居留地エリアを歩くと、居留地時代の面影を今でも感じ取ることができる。

鈴木商店はそんな神戸の中心街で、本店所在地をめまぐるしく替えた。弁天浜(今のハーバーランドの弁天町交差点付近)から、その北東の裏通りの栄町通4丁目、そして金融業・船会社等が軒を連ねた栄町通3丁目、さらに鈴木商店の代名詞となった東川崎町1丁目の旧みかどホテルの地(戦後は神戸貯金事務センター、現在はマンションが建つ)、焼き打ち事件の2年後の大正9(1920)年の暮れに移転して事業終焉の地となった旧居留地の海岸通の京橋の角、そして会社清算の地で直吉が再起を図った元の旧本店のあった栄町通3丁目の太陽曹達(戦後に旧居留地に移転、太陽鉱工)の本社内へ――と。

後藤回漕店は後藤勝造が創業し、台湾進出のきっかけを作り、金子直吉を支えた松方幸次郎が初代社長を務めた川崎造船所(現・川崎重工業)や神戸新聞社も神戸財界の老舗企業。さらに鈴木商店と表裏一体で発展した台湾銀行(本店は台北市)の神戸支店が、鈴木商店に寄りそうように栄町通に拠点を置いていた。

かつて本店があった海岸通(入口は京町筋に面していた)の跡地は今は立体パーキング場となっており、そのほぼ北に隣接して建てられた横浜正金銀行(戦後の東京銀行)の神戸支店ビルは昭和10年に竣工し、昭和57年に神戸市立博物館として開館している。同博物館には、有名な「天下三分の宣誓書」や日米船鉄交換契約を記念して鈴木商店に贈られた置時計など、ゆかりの品々が太陽鉱工を通じて寄託され保存されている。

わが街――鈴木商店とその時代

  • 明治42年の栄町通
    この後、明治43年に栄町通に路面電車が開通した。
  • 大正2年の栄町通3丁目
    右手の建物が鈴木商店
  • 大正6年の栄町通4丁目
    左手の建物が現在のみなと元町駅の外壁

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